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Q1. 人間は何のために生きているのですか?
A1. これは人類発生以来の大テーマですから「宇宙は何のためにあるのか?」と同じ意味で現段階では結論付けられないと思います。しかし、ヒントとして神示では「天命を全うするため」と示されています。人間が生まれてから死ぬまで長い人でも百年ちょっと、普通は80年前後です。これは永遠の魂の世界で言えば、ほんの一瞬ということになります。この間に何が出来るかというと、生まれてから色々なことを身に付けてそれを使おうとしてもすぐにはモノになりません。環境からの影響や勉強して得る知識はその環境や時代によって多少の差はあるものの、せいぜいその人が元から持っている資質にいくらか役立つかどうかという問題であって、本質的なものではありません。
要はその人間がはじめから持っている本性の資質がどんなものかということが大切なんです。人間の運命を形づくるのは、その人がどんな資質を持って生まれ、何をするのが最もその人の適正を発揮でき、そうすることで自分も幸せになり、しかも他人も幸せに出来るかということなんですね。これができれば、人は生きていくのが楽しくて仕方なく、何のために生きるのかなどと考えもしないでしょうし、その人がいるだけで周りの人たちが幸せになるでしょう。
Q2. 自分に自信がないのですが、どうすれば自信が持てますか?
A2. 自分に自信がないと感じる人は、自分の天与の資質がわからない人と言っていいでしょう。資質がわからないから「自信が持てる自分」を何か別の基準に当てはめて設定しようとするんですね。でも自信がないと感じるってことは「自信を持ちたい」という願望も強いわけですから、このような人はよく胸に手を当ててみると意外に気位やプライドが高く、強がりの面を持っているものなんです。しかし内面には例外なく劣等感を抱いていて、劣っている自分を他人に知られることを恐れ、外界に怯えていますね。このような人は劣等感を埋めるためにことのほか優越を渇望しますから、つねに自分が他に優越している姿を思い描いてその姿を演じ、他人にそのように思ってもらえることに執着していることが多いんです。
本当は自分に自信が持てないのは自分の本性、天与の素質を知らないで他の人より劣っていると思いこんでいるからなのに、もっと他の面で優越しなければと思いこんでしまうんです。人間は生まれた家庭環境や育つ土壌によってそれぞれ「立場」や「お金」や「物」を与えられ、環境からの影響による考え方の習性や知識などを得るようになりますが、それらは生きる上で必要な要素ではあるけれどもその人の本質ではない。
人間はともすれば、与えられたものや後から身に付けたものを本質的なものと錯覚し、これを後生大事にして自分の真の素質を忘れがちですね。このような人は与えられたものや得たものが大きいと一時的には優越感が満たされ満足しますが、今度はそれを失ったら大変だと思ってしまうんです。自分で感じる自己の大きさに比べて、得たものが大きいと感じるほど自分自身に不足感を感じ、根本の自信を失っていくんです。いくら表面上で強がってみても、自分の持ち物をひけらかして優越感にひたってみても、大事な部分での生き方が弱くなってしまいます。自分が弱く感じるとますます「弱い素地」のままでは他に受け入れてもらえないと思いこみ、さらに他に対する優越を求めて、立場やお金や物や習性や知識にしがみつくようになる。こうなると自分を守るのに必死で他人のことなど構っていられません。この人が他人に興味があるのは自分をどう見ているかという一点だけであって他のことはどうでもいいんですね。
ところがどんなに外側を鎧で固めても本質的に内面が不安定ですから、外面と内面のギャップが大きくなればなるほどますます内面の不安は増大し、自分の本当の姿を知られることが恐怖になってきます。自分を良く見せようとして涙ぐましい努力を重ねた結果、ますます自己を見失い、他人に怯えて自信を失っていくことになるのです。
このように、じつは本当の自信とは自分が何を持っているかではなく、何かを持っていようといまいとそのままの自分自身を外界にさらけだすことが恐いか恐くないかだけなのです。自分の素質というものは神からいただいたものなのですから、その優劣を自分が決めることはないのです。むしろそんなことをすれば神に対して不遜であると言わざるを得ません。神が人間に与えた素質というものは人間の霊性から見ればそれぞれ質は違っても等しく平等であって優劣はないのです。ではなぜ人よりも優れて頭の良い人や運動能力のある人、絵のうまい人、歌のうまい人がいるのでしょうか? 実はこれらの人は自分の与えられた素質を充分に活かしているから才能が抜きん出てくるのです。自分の資質を信じて正直に自分をさらけ出して努力しているから人よりも磨かれてくるのです。
自分には何も才能がないと思いこんでいる人は自分の資質が見えていないし、またぼんやりと見えていてもそれをさらけ出す勇気がないので行動がともなわずいつまでたっても確たる信が持てないのです。自信のない人は、自分の素質を良く知り、その素質を与えてくれた根元の神を信じて、自分を飾らずに行動する以外にその悩みから抜け出る道はないのです。自分を信じることはすなわち神を信じることです。やれば出来ます。
Q3.自分はどうも優柔不断で物事に挑戦できないのですが、どうしたら勇気を持てますか?
A3. 優柔不断な人というのは失敗を恐れている人です。もっと厳密に言うと失敗をすることで他人から嘲笑され拒否されることを恐れていると言ってもいいでしょう。
わかりやすい例で言うと、たとえば子供の頃に跳び箱が飛べなくて人からバカにされた子が2人いるとしましょう。ひとりはその嘲笑が心の傷になって跳び箱が嫌いになり、二度と跳び箱には近づかなくなる。ひとりは他人のことなど気にせずに自分のペースで飛べるように練習する。同じように飛べなかった子が、1年経つと片方は相変わらず飛べないし、体育で跳び箱の授業があると仮病を使って休んだりする。が、片方はいつのまにか飛べるようになっていて跳び箱が楽しいとさえ感じるようになっている。この差は大変大きいのです。
この一件だけでこの二人の人生は大きく変わってしまうんです。本当はもうひとりの子も跳び箱を飛びたいのに「またバカにされたら嫌だ。」と思って遠ざかってしまうんですね。でも本当は飛びたいんですよ。で、「跳び箱は嫌い。」と思いこもうとするんですが、これが重なると、本当に好きなものを否定せずにいられない習性になってしまうんです。つまり欲しいものや、やりたいことがあっても最初から「自分には無理だ。」とあきらめてしまうんです。でもあきらめきれないので、むしろ本当に欲しいものや本当にやりたいことを否定の対象に置き換えてしまうんです。「あんなのつまらないよ。」とか「どこが面白いのかねえ。」とか。つまり、けなすことで自分にとってのそのものの価値を下げて、「そんな価値のないものはいらないよ。」と消極的な満足を得ようとするわけです。
これと同じことがいろいろな場面で繰り返されると、その人は本当に欲しいものやしたいことを避けてばかりいる人生になってしまうんです。そのくせ実現しそうもない目標を持ったりするのもよくあることで、自分を確定したくないので到達困難な目標を作って何もしないでいながら自分を栄光化する傾向です。ろくに勉強をしてもいないのに「司法試験を受ける」ために他の仕事をしないで済ませる。自分の実体とかけ離れた宗教に凝って「世界人類を救う」などという途方もないことに熱中するというのもこれにあてはまる感情ですね。
一方、他人の目を気にしないで練習した子は、最初に出来なくてもあきらめない。何を言われようと自分のペースで練習して、いつか出来るようになってしまうんです。小さなことですが、これがあらゆる人生の場面で繰り返されるわけですからこの人はどんどん物事に挑戦して行けるわけです。持っている能力は同じなのに、他人の評価を気にするかしないかだけでこんなに運命が分かれてしまうのです。他者の成功をけなす癖のある人にはとくに前者のような傾向が強いですね。
このような性格になるには親の性格の影響が大きいのですが、その親自身もさらにその親の影響を受けているわけですし、一概に誰が悪いとは言えません。ただ傾向としては、一族が同じような考え方を持っている家では「真っ向挑戦タイプ」は異端扱いにされることが多いですね。自分たちの出来ないことをさっさとやってしまうので悔しい思いもあるでしょうし、うまく行ってると嫉妬もある。ですから、本当に自分の力を出し切ってがんばっている人を、意外にも親族や親戚がけなしたりする。「もとは武士」とか「何代前の家系は・・」というような家はその点大変ですね。社会的な成功が手に入らないのでやたらに家系を自慢したり、一族の中に誰か優秀な人間がいるとそれを自慢する。真の道では「祖霊祭」を奨励していますが、これはこういう一族の先祖の悪癖を浄化更新することで、現界の人間がその手かせ足かせから抜け出し、本当の意味で自己を確立するためなんです。そう言う意味で「祖霊祭」を重ねていくことはすごく大切です。
物事に挑戦する勇気のない人はまず祖霊祭を何度もやってみる。そうするとだんだん先祖の悪癖から解放されてむしろ先祖に対する感謝の気持ちが強くなってくるんですね。そうなると自然に自分で自分を縛っていた心のしこりがほどけて気が楽になるんです。神は誰にも平等に資質を与えていますから、こうなれば誰の目を気にすることなく気楽に自分が本当に進みたい方に進めるようになるのです。自分の命は神からいただいたものであり、親の所有物ではない。ましてや他人の評価でどうなるものでもない。でも頭でわかっていてもなかなかそうはならない。「祖霊祭」は具体的実際的に自分がわかるじつに有効な手段なのです。
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